蓮華寺について

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日蓮大聖人の生涯

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宗旨

名稱(めいしょう)
日蓮宗(にちれんしゅう)
宗祖(しゅうそ)
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)
開宗(かいしゅう)
建長5年4月28日(西暦1253年・鎌倉時代)
本尊(ほんぞん)
久遠の本師釈迦牟尼佛(くおんのほんししゃかむにぶつ)
題目(だいもく)
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
教義(きょうぎ)
日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。
この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。
本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励みこの教えを弘めることによってやがて世界平和と人類の幸福ひいては個人のしあわせにつながる事を確信できる教えであります。
教典(きょうてん)
妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)
法華経(ほけきょう)

日蓮宗の概要

日蓮宗とは、鎌倉時代に出現され、動乱の末法の世のすべての人々を救い、この世界を平和な仏国土とするために、その生涯を捧げられた法華経の行者日蓮聖人の教えを信奉する教団であります。
日蓮大聖人は、仏教の開祖釈尊が説かれた多くの経典のなかから、とくに妙法蓮華経(略して法華経という)を選び取られ、根本聖典とされました。
そして、法華経の教主釈尊を本師と仰がれ、自らは本師釈尊から法華経の弘通を委嘱された仏使であるとの自覚に立たれて、法華経の教えを実残されたのです。

したがって釈尊と法華経と日蓮聖人とが、日蓮宗宗徒の帰依すべき仏・法・僧の三宝となるのであります。このことを『日蓮宗宗憲の第一条(伝統)には、「日蓮宗は久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付属された本化上行菩薩の応現、日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏教正統の宗団である」と述べています。

お題目

日蓮聖人は、祈りのかたちとして、妙法蓮華経というお経の題名、すなわち「題目」を唱える祈りを私たちに示されました。
「南無妙法蓮華経」とは、真実の法華経のみ教えすべてを包み込んだ無上の良薬、その尊いみ教えの働きへ「南無」、すなわち帰依し、心と体すべてで信じ続けますという意味です。
法華経への深い理解から、日蓮聖人は、仏の本意と仏への帰依の実践、そして末法においては誰もが行ずることができる祈りのかたちの必要性を深く探究されました。

その答えこそ、お題目を唱えること、「唱題」です。お題目は単にお経の名前や、釈尊の覚られた真理を表す経典への帰依をかたる言葉ではありません。そこには法華経の説法に込められた仏の大慈悲、すなわち、私たちを仏の境地に導こうとする釈尊の誓願と功徳のすべてが包み込まれているのです。

法華経と釈尊

仏さまは何のためにこの世にお生まれになったのか。それは、この世の真実を明らかにし、一切の人々をその真実の世界に導き入れ、覚りの境地を体得せしめるためである。 苦悩に満ちたこの娑婆世界が、そのまま仏さまと共なる永遠不滅の浄土であることを、仏さまは一切の人々に知らしめようとされたのである。(方便品=取意)
『法華経』は八巻二十八 品から成ります。法華経を信じる私たちは、この経典こそが釈尊が教えの神髄を表した「仏法を敬い護り伝える」ものであると信じています。
仏法は、美しい散文で伝えられ、巧みな説話や、 寓話・ 譬喩 、超自然的洞察力に富んだ記述、形而上学的議論にあふれています。
この世のすべてを 俯瞰する記述が、時空を超えて広がります。説法が多彩で豊かなのは、釈尊が、聴く者の境涯と感受性に合わせて、「 方便」を用いたからです。つまり、 正法への帰依に目覚めた者には、仏になる道へのさまざまな門が開かれているのです。

法華経は大きく二分されます。最初の十四章まででは、人間という存在すべての性質に共通に内在する現実の姿が描かれています。
人に本来そなわっている仏性に気づくことで、覚りへの道が開かれるのです。十五章以降、特に法華経の説法の中心ともいえる十六章では、諸仏世尊のもとにあるこの世界の姿と存在の永遠性が明かされ、以後の章では末法におけるこの教えの 流通の重要性が述べられます。
インドに生まれ、覚りを示し、仏法という真実を照らし出す大光明を放った釈尊は、実は永遠の昔に成仏し、この世界の救済を誓われた 久遠実成の 本仏である、その仏は現在もこの世にましまして闇を照らし、仏になる道をさまざまな方法、そして教えを求める菩薩たちの実践を通じて指し示し続けている、これが法華経の説法の大きな流れです。